怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

心に悪を持つ人に対する処方箋はない

宅間守の母親は、宅間守が出産したときに、「あかんわ、これ、堕ろしたいねん私。あかんねん絶対」と父親に語っていたそうだ。生まれたての赤ん坊は言葉を理解する力に乏しく、赤の他人の表情を読み取ってその時抱いた感情を言語化することは難しい。たしかに言葉を理解することができないといっても、彼の経歴を振り返ってみると、数々の問題行動ばかりが散見される。こうした問題行動は、出産と同時に生まれたのではないかとする考え方もできなくはない。母親の自分に対する感情の抱き方や接し方が、宅間氏の人格を歪ませた要因の一つになっているのではないかと。何しろこの世で初めて出会う人間は母親にほかならず、母親との交流を通して赤ん坊は自己をを確立させていく。その最初のスタートラインである出産時に、実の母親からこのような酷い言葉を浴びせられれば、彼の心の中に悪魔が棲息してしまったと考えるのは何らおかしなことではない。

両親による宅間氏への態度はどこか他人事で、投げやりであり、彼自身に問題があるとしか考えていないように見受けられる。そして、数々の犯罪行為を働いていたにもかかわらず、それを重く受け止めるわけでもなく、それを黙殺していたことが、後のあの凄惨な池田小事件に繋がっているのではないかと私には思えた。宅間氏は本来保護されるべき人間で、社会に解き放ってはいけない人間だったが、こうした人間を収容しておく施設は現代には存在しない。精神病院や刑務所が一応その役割を果たしてはいるが、医療保護入院や措置入院を除き、本人の同意なしに精神病院に入院させることはできない。本人が入院したくないと言えば、入院を拒否することはできるのだ。刑務所に閉じ込めておくにしても、何らかの犯罪を行っている必要がある。つまり、精神病院への入院にしても、刑務所への拘禁にしても、何らかの重大な事件を引き起こしている必要がある。そしてその犯罪事件というのは、軽微なモノでなく、行き過ぎた重大な行為である必要がある。なお、重大な事件が引き起こされるということは、その被害に遭う人が必ず存在するということ。つまり、第三者が被害にでも合わない限り、こうした人たちの身柄を拘束しておくことはできない。

今回は池田小事件が起こってしまったが、もしあの事件が起こらなかったとしても、近い将来、宅間氏は凶悪な犯罪を犯していた可能性が十分にある。結局、こうした人たちの暴走を止めることはできないのだ。法律を厳格化して行動を抑制することはその対応策の一つではあるが、それも限界がある。だから、結局社会にできるのは、宅間氏のような犯罪者が社会に一定数存在することを前提にして社会生活を送っていく必要があるということ。以前、松本人志氏が、引きこもりが事件を引き起こしたときに、「こういう遺伝子のエラーというものは一定数発生する」といっていたが、まさにその通りで、いつの時代にも凶悪な人間が一定数存在するのだ。本人もなりたくてそうなったわけではないだろうし、人生においてそうした行動を引き起こす運命として生を享けてしまった。法律によって行動をコントロールすることにも限界がある以上、そうした人たちが存在することを受け止めて生活していくほかはないのである。

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