怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

自分語りの跋扈する世界

人間はどうしてこれほど自分のことを語りたがるのだろうか。右を見ても左を見ても自分語りの嵐である。自分はこれをした、あれをした、自分はこういうことに興味がある、自分はこういう人間であるということを他人に向けて語り、他人から何がしかの反応を貰うことを期待している節があるようにみえる。それは人間に、人に共感されたい、したいという根源的な欲求が備わっていて、そうであるが故に人に自分のまつわることをどんどん話したいという欲求に駆られるのかもしれない。そしてそうした欲求は何によってもたらされるか考えていくと、承認欲求や自己顕示欲、自己受容欲というものの存在がまずあって、それを満たすために上記で述べたような行動を取るのかもしれない。とすれば、そうした欲求を持たない人間や希薄な人間は他人に向かって何かを語るという行動を取らないのではないか。なぜなら、そもそもそうした欲求自体に乏しいのだから。

右で述べたような自分のことを他人に話すというスキルはどのようにして取得されるものなのだろうか。身近な人間と思い出や時間を共有し、心身ともに沢山の触れ合い経験を通ずることで、取得されるものなのか、それとも先天的に人間に備わっているものなのか。こうしたことを平然とやってのける人を見ると、どこでそのスキルを身に着けたのかと驚くべきことばかりである。みんな本当に凄いことを平気でこなしている。自分に関して言うと、この自分のことを人に話すというの能力が致命的に欠けている。僕自身、そうした経験をしたことはあまりないというか、ほとんどない。

自分語りは大切なものである。というより人間社会の中で生きていくにはどうしてもこれをやっていく必要があって、それをしないと他人と関係を持つことがとても難しくなる。別にそれをしなくても生活すること自体はできるのだが、それはこの世界に自分しかいないという環境のもとで生きていくということである。なぜなら人間と関係を結ぶことができないからである。自分語りをしなければ、この世界に自分が存在していることを周囲の人間に認知してもらえない。認知してもらえないということは他人が自分に干渉してくることは不可能になる。また、自分の方も他人に干渉していくことができなくなる。他人の人生に干渉したければ、自分語りをして自分がどのような人間であるか知ってもらう必要があるが、それをしないのであれば自分がどのような人間であるか相手は分からないから、人と関係を構築することはできない。人間関係を構築できないということは、外部の対象の存在を抜きにして自分が満足できることを探し求めていかなければならないということだ。けれども外的対象を抜きにして自分の生活を成り立たせるということは容易ではなく、どんな人であっても外的対象の存在を必要としている。それは周りの人間を見れば分かることだ。やっぱり人間には自分以外の対象の存在が必要なのである。生命体であれば人間やペットなどに、非生命体であれば趣味や娯楽の世界などに依存して自分の心を満たそうとする。そういう外的対象の力を借りて自分の心を満たそうとする手法は、実に人間らしいことであると思う。

自分に関して言えば、「自分にはなにもない」ということしか主張するものがない。これも一種の自分語りではあるが、こういう訴え方をしないと自分語りというものは自分には到底できないのである。冒頭で周囲の自分語りに対する疑問をつらつらと述べたが、自分も自分語りをしてはいる。しかしそれは自分が空白な人間で、何も持っていない人間であるという説明でしかない。今後も他者と関係を結べないうちは「自分にはなにもない」という自分語りをしていくのだろう。

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