怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

独りの世界から抜け出せない

人と関わりたいという欲求がない。それはリアルにしてもネットにしても同じである。


今の時代、情報を発信する環境は既に整っている。その手段としては、SNSYou Tube、ブログなどが第一に挙げられる。そして、パソコンやスマートフォンが市場に出回っているので、それさえ手にすれば、誰でも情報発信ができる。高齢者であろうと、子供であろうと、老若男女問わず誰にでも情報を発信する権利が与えられている。なんて凄い時代になったことだろう。自分の考えを主張する権利や人と手軽につながる権利が個人の手に委ねられているのだ。これは一昔前では考えられなかったことである。


にもかかわらず、リアルでもネットでも人と繋がりたいという気持ちが一欠片もない。人に伝えたいこともなければ、訴えかけたいこともない。主張したいことがなにもないのだ。


ところで、本当にそうした理由から情報を発信するという行為をとらないのだろうか。人と関わりたいという欲求がない、主張したいことがないという理由だけですべてのことを片付けてしまっていいのか。


例えば、自分の心の中にはこうした感情が内在している。それは情報発信することで他人に存在を認識されるのが嫌だということである。様々な人から毀誉褒貶の感情を向けられるのが嫌なのではなく、自分の発した情報が不特定多数の人に知れ渡っている状況が嫌なのだ。自分の書いた文章なんかが誰かに読まれているという事実が、自分を不安定にさせる。これは何も文章に限ったことではなく、動画でもラジオでもイラストでも同じようなものである。リアルな関係のみならず、ネット上であっても、ある表現媒体を通して自身の存在が認識されること、他人と距離が近くなること、そういう状況に自分は耐えられない。敢えてその時の感情に名前をつけるとするならば、「不快」や「不安」、「戦慄」と名付けるのが適切だろうか。


それならば何も発信しなければいい。これまで通り他人のいない世界で淡々と生きてひっそりと死んでいけばいい。何も語らずに沈黙を貫いて静かに消えていく。それで自分を納得させて生活を進めていくのも一つの生き方である。しかし、そうした生活を長く続けることができるのかというとできそうにない。何しろ自分の生活に他人がいないのだから、どうしてもネガティブな感情に振り回されることは間違いない。独りで私生活の全ては回っていく。この世界には自分しか存在しなくなる。そうなるのも当然であって、自己主張しないので他人が自分の生活に介入してくることはないし、他人の生活に自分が介入することもない。これから先、二度と他人と出会わない生活がほぼほぼ確定し、互いの地平線が交わることはない。関係は平行線を保ったままである。生活に変化が生じることはないし、自分がどこへ辿り着くのか見えてしまった。それに納得できるのであれば何も言うことはないのだが、自分はどうもそうではない。ここにおいて虚無や怠慢、後退の感情が発生していて、それに打ち勝つことができないでいる。そうした感情が湧いてくるということは、多少なりともそうした生活に不満があるということである。それに対処するにはどうすればいいのか考えていくと、やはり他人と関わりを持つしかないのかもしれない。


しかし、自己が希薄過ぎるが故に自分に語るものが何もないことや様々な対象物が自分の世界から消えてしまったという厳しい現実がある。そのような状況下でも自分に趣味や関心事、豊かな感情表現、大げさな身振り手振り等を与えて人と関係を持とうとするのは本当に良いことなのか疑問に思う。消極的な理由から今の自分の生活に人が必要と考えて、自分の本心とはかけ離れた役をこなすのは欺瞞ではないのか。それは自分と他人を欺いている。こうした点からいっても、単に人と繋がりを持つために無理をして外部に自分を擦り寄せていくのは良くないことだと自分は考える。自分にとってそれは良い人間関係だとは思えない。


しかし、それをしないと今後も他者と出会うことなく、独りで生きていくことになる。その生き方も自分の望むところではない。変化や刺激のない単調な生活を繰り返すことが確定していて、そのルートが変わることはないからだ。つまり、どちらの選択をとっても自分に不本意な結果をもたらし、他人というものが自分の目の前に現れ出てくる選択肢が一つもない。金庫の入った宝は見つからないかと探し回っているが、ゴミの入ったクーラーボックスしか見つからない。


それでも独りでいるよりもまだ他者のいる生活のほうがいいのだろうか。僕にはよくわからない。けれども、その道を選ぶと自分というものが二度と手に入らなくなる予感がある。自己が確立されることはないという予感もある。如何せん、人を自分の世界に取り込むために、自分の望みとは異なる役割をこなして人付き合いをするのだから、自己が統一されるという状況からますます遠のいていくのは確実である。要するに、自己が薄っぺらいところにますます自己が表れないようになるというわけだ。


こうした二つの生き方が自分の頭の中で振り子のように反芻し、目眩ましになって物事の判断が下せないでいる。いったい宝はどこに潜んでいるというのか。

 

 

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