怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

アウトプット機能の足枷

コミュニケーションには言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションの二つがあり、僕は後者のコミュニケーションの働きがうまくいっていない。そして後者のコミュニケーションの方が生活において重要であるので、それだけコミュニケーションを取るうえで不利な状況に置かれている。自分は人と一緒にいるときには感情が表に出づらい人間ではあるのだけど、一人でいるときははっきりと感情が表に出ているし、その時体験した感情を言葉で表現することに困難さを抱えてはいるものの、情動の働き自体はしっかりと機能している。また自分は表情や機微の変化などから相手の感情を読み取ることも一応できる。問題は、自分の感情を相手に伝えるという一点にある。つまりアウトプット機能に問題を抱えている。

表にすると次のように説明できる。

しかし僕も長らく人間社会の中で生きてきた人間である。そこでは感情を大いに表現することが大切であることは言うまでもなく知っているし、実際に感情を出すべき場面が多々あるということも実体験を通して理解している。人間社会では、感情を出してコミュニケーションを取ることが奨励され、実際に多くの人はそれをうまく使いこなすことでこの人間社会をうまく渡り歩いている。感情は相手の気持ちを知る手がかりとしてとても重要なツールの一つである。感情があるからこそ人間のコミュニケーションはより豊かなものになるし、日常生活は言わずもがな、人生において必ずや生じるであろうイベント事でもそれを出すことが当然のように求められる。そうしたなかで感情を表に出せないということはコミュニケーションに齟齬をきたしてしまい、周りとうまくやっていけないことを意味する。 この世界は感情を中心に回っている。特にリアルの世界においてはそれが顕著に認められる。そのような中でもこの世界で生きていこうものなら、感情表現が求められそうな場面にはなるべく近づかず、言語だけでやり取りのできる空間に居場所を見出すか、それとも何としてでも感情を生み出すことに力を注ぎ、無理にでもそうした場に溶け込むように努めていくかの二択である。

前者はそうした感情的なつながりが求められる場面を拒絶し続けることによって相手を傷つけてしまうし、後者は作り物の感情で周りと接することで周りに不快感を与え、自分の側も意図的に感情を作るという行為から逃れられなくなる。

できることなら感情を出すことが求められない場所で生活したいが、そのような場所はこの世界にはほとんど存在しない。あるとすれば、それは人間とのコミュニケーションをシャットアウトした世界でしかない。

自分自身の感情機能の働きについてはまだまだ分からないことがたくさんある。それにしても自分はどうしてこれほど感情をスムーズに表現することができなくなってしまったのだろうか。

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