怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

理性による奴隷化

家にいても特にやることが何もないので無理にでも外へ出てその辺をあちこち歩き回って時間を過ごすことが多いのだが、どこかへ行って何かしたいという欲求が全くない。どこにも行きたい場所がないのだ。そのため一歩外へ出た途端、どこへ向かって歩き出せばよいか分からなくなる。基本的に自分の情動に突き動かされて何かをするということが全くないので行動する方へと自分を仕向けていくしかない。


外の世界には人の心を魅了するもので溢れているけど、そうしたものに感化されて身体があっちの方へ向いたりそっちの方へ向いたりすることが基本的にはない。外の刺激を受けて身体が勝手に動くというようなことがないから自分で行動する理由を作り出すしかないというまぁ何とも訳の分からない状況に置かれている。


日常生活のほとんどは理性中心の生活で、そこに感情というものが介入することはほとんどない。それは服装選びにしてもそうだし、生活必需品の買い出しにしてもそうである。感情というものによって物事の選択や価値判断を下すことができないので、理性によって物事を処理することが多く、理性が生活全体を支えている。しかしながら理性中心の生活というのは行動が規格化されてしまってロボットとして行動しているようなものである。自分の内側から何か欲求が湧いてきてそれに従って行動を起こすのは人間らしい振る舞いであるが、自分の場合、そうはいかず、だからこそ自分はこの生活が全然好きになれない。そこには自分の意志しか存在しないのだから。


少しでも感情に頼った生活を送りたいと考えてあれこれ行動してみるのだけど、どうしてもそれを実現できないでいる。何をしてもそこに理性的な考えが介入してしまって純粋な感情生活というものを送ることができない。自分は行動する際に理性を取り込みたくはないのだ。完全にそれを排除する必要はないのだけど、それに支配されて日常生活が機械的に進んでいくことは自分の望むところではない。


あれほど自然に備わっていた喜怒哀楽の感情が今では最初からそれが存在しなかったように、自分の内面からすっかり消えてしまった。もちろん自分には感情があるし、普通に表現したりもするが、それはやはり一人でいるときに限られ、人といるときにはいきいきとした感情を表出できない。


理性や強力な意志は自分に豊かな感情をもたらすことを妨げてしまう。豊かな感情というのは無意識の状態でいるときに生まれる。だから、理性の働きが強いときは豊かな感情を体験するという状況から最も遠く離れている。


感情に突き動かされて行動したいと考えるが、僕はその方法を知らない。こんなものは普通考えるまでもないことなのかもしれないが、それがなければ生活というものが始まらない。自発的に行動を取ったときや理性が優位に働いていないときに、人の心を大きく揺さぶり、また自分自身も豊かな感情体験をするだろう。そしてそのときに自分は人生の味を噛みしめることができるのだろう。

 

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