怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

画一化された社会

調べ物をするためにネットで情報を検索すると、似たような情報サイトばかりがヒットする。DIYや収納方法、整理整頓、食の調理法、洗剤用具の説明などなど色々な情報を調べてみても、似たような内容の記事ばかりを読まされてしまってげんなりする。こうした記事を読む度に、同じ情報は一つあればそれでいいのではないかと思ってしまう。いやはや、本当にネット上の役に立つ情報やお買い得情報はどれも文章の構成や前置きの構文、内容が似通っていて、その違いが全然分からない。それでも唯一情報に違いがあるとすれび、それは発信者のパーソナリティが異なるということである。つまり、誰が言ったかの部分が違うのだ。


現代社会は膨大な情報で溢れかえっており、毎日沢山の情報が目まぐるしいスピードで流れていく。これはスマホやパソコンを所有している人であれば誰でも情報発信できるようになったためであり、そのハードルがとても低いのである。ここで主張したいのは内容の良し悪しや情報の質についてではなく、何故こんなに多くの人々が情報を発信しなければならないのかということである。


〜アシスタントとか〜アドバイザーとか〜プランナーとか自分を説明するものは今の時代たくさんあるけれど、そうした肩書きを自分に掲げて積極的に情報発信する理由は何なのか。別に肩書きなんかつけなくても普通に情報発信していればいいのではないか。肩書きをつけて何かを発信するようになると、その肩書きのほうが力が上であるが故に肩書きに大いに感化されて行動してしまうようになるのではないかといつも思う。


例えば筋トレマニアと肩書きをつけるとすると、筋トレにまつわる情報を発信し続けなければならなくなる。でもそれは本当に自分の欲求に従ってなされた行動なのか。自分でそうした肩書きをつけたが故に、また、周りがそうした肩書きの情報を欲しているが故に、義務的に肩書きに関する情報を発信しているだけではないのか。


それから何でこうした人たちが増えているのかと考えていくと次の二つの背景があるのではないかと思われる。


まず最初に情報に踊らされて何かをしなければならないと思い込み、それで色々な情報を発信することに努めてしまうということ。これからは個人の時代だから積極的にどんどん情報を発信していこうという言葉に感化されて毎日情報を発信したりする。でも、別にみんなが情報を発信しなくても良い。その必要性を感じない人もいるだろうから、発信したい人だけ発信すればよい。


次にネットで稼ぐために情報を発信するということ。一つの収入源だけでは将来に不安があるから別で収入源を確保したい、あるいは様々な欲望を満たすためにお金がどうしても必要。それでネットに手を出したりといったようなことが挙げられる。

 

しかし、どうしてお金のために情報発信しなければならないのか。お金がチラつくと、その力の持つ大きさによって自身の行動にまで制限がかかってしまう。積極的な情報発信の推奨は、人々に大衆社会に媚を売らせたり、大衆の心を満たすために何かをやらせたりするように仕向けるが、それは社会向け用にありもしない自分像を作り上げて社会のために活動させることでもあるから、そうこうするうちにますます自分像というものが分からなくなってしまう。


こうしたように、肩書きをつけての情報発信は本人の意志とは関係がない。社会や周りの存在によってそうするように強要されているだけで、自分の意志はそこにはないのだ。そういう意味では情報過多社会というのは国民が一つの方向に収束されるので怖い。ネットの発達により個人主義の時代が加速したように見えるが、個人に似たような行動を取るように仕向ける集団主義的な部分が残っていて、それが自分には合わない。


そんなに自分に肩書きを与えて自分の行動を縛らなくても、何の肩書きもつけずににただ情報発信していればいいのではないか思うのだが、どうもそんな世の中ではないらしい。

 

 

 

 

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