怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

生と欲望

人間は様々な欲望を持つ生き物である。三大欲求を始めとして、物欲、名誉欲、所有欲、自己顕示欲、承認欲求など実に多くの欲望を抱えながら日々生活している。こうした欲望は生きる支えとなり、これらの欲望が乏しければ乏しいほど、それだけ生に対する執着心は薄れていく。生きようとする意志が自らの内側から生じにくくなり、生に対して受動的なスタンスでしかいられなくなる。そういう意味では欲望は人間が社会の中で生きる上でなくてはならないものである。

それなのに、どうもこの欲望というものが、自らの内部に存在しない。あるにはあるのだが、それがとても希薄で、それ故に何らかの行動を引き起こすことが非常に難しくなっている。その行動と言っても、何もおおそれた行動を指すのではなく、ごく些細な行動であっていい。

例えば、スーパーに行って自分の食べたいものを手に取るとか、観たい映画を観るとか、読みたい漫画を読むとか、そんな程度のものである。そうした欲望すらない。何かを満たしたいという欲があるのであれば、それを満たすためにそうした行動を自然に取ると思うのだが、それがないから行動を起こすきっかけがなく、硬直した状態でいるしかない。

これはとても困りものである。なぜならその状態でいる他なく、外の世界に向けて何か働きかけをすることができないのだから。なので、自分の世界に留まり続けるしか選択肢がなく、そこから一歩も出られないでいる。どうして自分はこんなにも欲がないのだろうか。欲の大きい人と自分との違いは何なのか。マズローは人間の欲望を五段階に分けて提唱したが、自分はいつも一段階目の欲望しか満たせていない。生理的欲求しか満たせていないのだ。しかもその生理的欲求とやらも消極的なもので、生きることに完全に受動的な姿勢を保っている。この欲望を満たしたいという気持ちが皆無な状態がずっと続くのであれば、この先一生行動するきっかけがなさそうである。そして、そのことは考えるだに恐ろしい。何もできないでいることしかできないから。今の自分にできることは、架空の欲望を自ら作り出して行動する方へと向かっていくことしかない。それがどんなに空虚な行為であろうとそうする他ないのだ。

 

当ブログの文章や画像を無断で転載することは厳禁です。もしそうした行為を働く者がいた場合、然るべき法的措置を取らせていただきます。