なかむの日記

他愛もないことをつらつらと書いています

脳は見た目から逃れられない

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

脳は見た目から逃れられない (SB新書) [ 和田秀樹 ]
価格:1,100円(税込、送料無料) (2026/10/20時点)


人を見た目で判断するなという言説をよく見聞きする。生まれ持った遺伝子によって容姿等に違いが出てくるのは当然なので、そうした差別的なニュアンスと受け取れる発言は慎めというのがこの言説の真理である。

しかしながら、人を見た目で判断するなというのは難しく、実際多くの人は「人を見た目で判断」している。例えば、体つきがゴツい人や髪色が明るくピアスをつけている人、タトゥーが入っている人等に対しては威圧感や恐怖心を抱き、心のなかで彼らに対して怖い人というイメージを持ってしまう。またオタクという言葉がある通り、アニメや漫画、アイドル等に没頭している人に対しては先入観からオタクというイメージを持ち、どこか彼らに対して見下した態度で接してしまう。こうしたように人間は外部から得られる視覚情報をもとに相手がどのような人間であるかを考え、それ相応の態度を取る。人を見た目で判断するなとか、もっとその人の人間性を見ろとかあるが、結局、外見から得られるパワーは大きく、それをもとに人を評価してしまうのは人間の脳の仕組み上避けられない。

昨今は美容整形が流行っているが、過度に整形を行わない限り、美容整形に関しては賛成の考えを持っている。というのも、生まれつき遺伝子の違いにより、ルックスに恵まれる人、恵まれない人がそれぞれいて、外見以外の要素も重要とはいえ、それでもなお就職活動やお見合い、合コン、会社の広報部や受付などのように見た目の美しさが求められるケースというのは多々あってそうした場面で得をするのは否定のしようがないからだ。そうした社会生活をプラスに送るうえで、ルックスが何かと大事であるのは間違いないので、よほどコンプレックスを抱えているのであれば整形してもよいと考える。ただし、趣味にお金を注ぎ込むのと同じように、欲望がとどまることを知らず、もう少しワンランク上のルックスになりたいと考えて何度も整形を繰り返すことには賛成できない。というのも欲望には際限がなく、絶対に一番な領域には達することができないからだ。やはり折り合いをつけて身の丈にあった生活をするのが一番で、そうでもしないと破産したりして生活が立ち行かなくなってしまう。何事も「ほどほどにの精神」が肝要なのであり、ありのままの自分を受け入れて生活していくことが何より大切なのである。

ドラマGTOの所感

最近はドラマGTOをずっと観ている。毎度毎度鬼塚の干渉ぶりが暑苦しく、鬱陶しいとは思うけれど、身近にこんな教師がいたら心強いだろうなぁとも思ってしまうのが鬼塚という人間です。

けれども、今の時代に鬼塚のような教師が存在するのは難しいように思います。それは、昨今のハラスメントの認知度の拡大や、それを取り巻く問題が大きく影響しているからです。今の時代、ちょっとしたことでパワハラだのモラハラだのセクハラだのと騒がれてしまいます。そうした容易にハラスメントに結びつくことを恐れて、教師が生徒と真正面から本気で向き合うことができなくなっているように思います。何せ少しきついことを言ったりすれば、生徒の保護者からクレームが入ってしまいますからね。本気で生徒とぶつかるとなれば、モンスターペアレントを生み出してしまうことは避けられない。だから、生徒と真摯にコミュニケーションを取ることを避け、弱腰な態度で接してしまうようになってしまう。

現代社会には鬼塚のような教師がいてもいいし、というかむしろ絶対に存在すべきだと思うけど、今の時代には合わないんでしょうね。これも時代の流れといえばそれまでですが、逞しく生きる生命力みたいなものが養われにくい土壌が今の社会にはありますね。

集団化するとき、人は別人格になる

群衆心理が働く場面は世の中に数多ある。その代表例が、集団いじめや戦争、デモ、運動会などである。

これらはいずれも人間がとある集団に身を置くことで、行動様式が同一化するという共通点がある。例えば、集団いじめに関しては、一部の人間がクラスの誰かをいじめていると、それを見た人間が感化されていじめに加担するようになる。これは自分がいじめの被害とならぬように、周囲の同調圧力の影響を受けた好例である。おそらく本音ではいじめに加わりたいとは考えていなくても、無意識のうちに周囲の影響を受けて、いじめに加担してしまったケースがこのケースとして当てはまる。いじりに関してもそうである。一対一で接している分には何も問題がなくても、複数人でコミュニケーションを取るとなると、そのうちの誰かをいじって、いじり役を作り上げ、その場に笑いを引き起こそうとしたりする。これも群衆心理が働いた典型的な例である。さらには戦時中のように、他国を打ち倒すというある一つの目的を前に、国民が一致団結して共通の理念を共有し、足並み揃えて集団行動を取っては周囲の和を乱すような行為や周囲に同調しない者は「非国民」として罵られるケースなど、例を挙げればキリがないくらい群衆心理が働いているケースは世の中に数多く存在する。

とはいえ世間では群衆心理というのは完全悪なもののように捉えられてはいるけれど、それがプラスの方向に働くこともあるので、一概に悪いものであると言い切ることはできない。その好例が戦争である。戦争では他国に打ち勝つために、自国民が一丸となって相手に立ち向かうことが求められる。ここにおいては戦術を共有し、他国を打ち負かすという大きな目標のために、みんなで力を合わせて物事を行う。その時、集団がバラバラに行動してしまえば、他国に戦争で打ち勝つことはできなくなるだろう。こうした意味において、考えや価値観が同一化し、集団で同じ行動を取ることは完全悪なものであると言い切ることはできない。

このように人間の行動背景には様々な心理的要因が潜んでおり、それが人間の行動に著しい影響をもたらしている。こうしてみると、人間というのはつくづく面白い生物であるなと思う。

巧妙に、他人から共感を誘う人

タイトルに惹かれて購入してみたが、筆者の自己主張の多さに嫌気が差し、途中で読むのをやめてしまった。本書の主な内容は、認知機能の低下や情報処理能力の低下により、日常業務を円滑に処理することができなくなり、日常生活が破綻しがちになるというものだ。

生活に困っている人がどのようなお困りごとを抱え、またそれが何に起因するのか知りたくて、本書を手に取ってみたものの、蓋を開けてみれば、筆者の被害者感丸出しの自己主張のオンパレードばかりで、正直、辟易してしまった。本書では日常生活で困惑していることの事例が数多取り上げられているが、筆者はその様々なことができない原因をすべて自身の病気のせいにし、病気を盾にすることで自身の現状を正当化している。もちろん全く他人や社会に問題を訴えかけずに、自身の胸のうちにしまっておく必要はない。そうした生き方を続けていけば、生活が煮詰まってきて感情が爆発し、危機的状況に陥ることが十分にあるのだから。だから、ある程度は他人や社会に対して、自身の生活におけるお困りごとを伝えるのは決して悪いことではない。だが、過度に他人に自身の病気の理解を求めるのは行き過ぎた行為であると私は思う。他人は自分と同じく、同じ社会のなかで暮らす構成員ではあるが、他人といえども自分と人格の異なる赤の他人なのであって、そうした人たちに自身のことをすべて理解してほしいなどと求める必要はない。それはひどく厚かましいことである。こうしたことを平気で求め、被害者意識の高い主張をつらつらと繰り返しているところに嫌悪を感じ、本のページを閉じることとなった。

こうした人間は他人に自分という人間の特性を過度に求めはするけれど、自分は他人に興味がないケースが多いように思われる。つまり、自分ファーストの考えの持ち主で、自分のことしか考えていないのだ。一見自分と同種の病気を世に知らしめるために、広報活動に精励しているようでいて、実は被害者であるかのように振る舞い、同類の民にとって耳障りのよい言葉を投げ掛けることで、共感を集めている人という印象しかない。

巷で販売されている病気系の本は、こうした他人に自分のことを受け入れてほしい本ばかりで溢れている。病気を抱えている人に寄り添うと言いながら、本音は自身が共感を集め、承認されることにしか興味がない。病気を抱えている人に寄り添うと言いながら、本心は自身が利益を貪り食うことしか考えておらず、それを社会のため、世のため、病人のためのように見せかけて表現するその厚顔無恥さぶりが自分は受け付けない。

美青年への所有欲と死滅願望

三島由紀夫の著書『殉教』の中に、「殉教」という一つの物語がある。この物語のあらすじは、主人公の畠山と同級生の亘理という二人の男子生徒のあいだで進行していく。二人は取っ組み合いや掴み合いのけんかをし、最終的には主人公の畠山が他の複数の同級生と共に亘理を抹殺するという内容である。

「殉教」と聞くと、殉職を連想して、人間の生命が失われることを真っ先に思い浮かべる人も多いのではないだろうか。本作においてもそれは例外ではなく、主人公畠山の同級生である亘理という男子高校生が、集団リンチの末に殺害されてしまう。美しく魅力的な青年であった亘理を、普通なら殺す必要など全くないのに、あえて殺害した理由は何なのか――それが本作の謎である。

本作を読み進めていて思ったのは、三島の小説にしばしば見られる、美青年と心中したり、美青年に殺されたりするというテーマである。『憂国』では、美への憧れを抱く武士道の夫が妻と心中するし、『午後の曳航』では美少年の龍二が複数人に殺害される物語となっている。三島の小説のパターンとして、美しい青年を殺害するか、あるいは彼らに殺される、または彼らと心中することで、自身の内に眠っている何かを満たすという手法をとる作品が非常に多い。この『殉教』も例外ではない。主人公の畠山は亘理を殺害することで、自分の中に潜んでいる美を追求しようとした。美しいものを殺害することで、それを自分のものにしたという感覚を味わい、自分の中に美を蓄積していくことで、美の塊である高層建築物を構築していった。しかし、ここで疑問に感じるのは、なぜ彼はそこまでして美青年にエロスや美を感じるのかという点である。

諸説によれば、三島由紀夫は同性愛者であったと言われているが、本作に登場する二人の男性の馴れ合いや親密な描写を見ると、それもまんざら嘘ではないのではないかと思わされる。しかしその一方で、世間の目や声に応えるために、同性愛者としての人物像を意図的に作り上げていた可能性もあるのではないかとも感じる。

少しでも三島の作品を読んだことがある人ならば既に知っている通り、三島は父方の祖母から大変厳しい躾を受けて育った。男の子らしい遊びを禁じられ、女の子向けの遊びを積極的にするよう促されていた。こうした養育環境がベースにあったため、男らしさや男性的アイデンティティを十分に獲得することができず、それらを欠いたまま成長することになった。このことに後ろめたさや罪悪感、劣等感があったからこそ、心身を鍛えて男の世界に仲間入りしたいと常々考えていた。自分も男の一員に加わりたい、早く同類の仲間入りというのが彼の率直な願いだったのである。そうした意味合いもあって今回の小説は、その延長線上に位置する作品であるといえる。

美少年を殺害すること。これこそが彼の内側に眠っている様々な欲求を満たす最善かつ唯一の手段なのである。

ハマータウンの野郎ども

ヤンキーや不良といった人々はなぜ学校の勉強を嫌い、反学校的な価値観を持つのかについて、様々なデータをもとに紐解いていく本。

私は公立の小中学校出身だが、周りのヤンキー達は勉強するのがダサい、カッコ悪いという考えを持っていたためなのか、早々に高校進学や大学進学を諦めて、中卒後に肉体労働の世界に飛び込んで現場作業に従事している人が多かった。そんな彼らに対する周りの目は厳しく、反学校的な態度を取っているところに対して軽蔑的な目で見ていた。それというのも、学校のルールを守るのが常識人として呼ばれるにふさわしく、そうでない人間は危ない奴らと認識され、とにかくそんな人らと距離を取ろうとするのが一番だとするのが世間一般の考えなのだろう。だから、そんな彼らと距離を保って生活しようと努めるのはごく自然な成り行きなのかもしれない。

ところが、この反学校的な振る舞いというのも、単にルールを破って生活したり、やんちゃなことをしたりするのがカッコいいからというよりも、学校の勉強の成績でしか人を評価しないその仕組みに嫌気が差し、「もっと違う部分で俺を見てくれよ」という意思表示の手段として、非行少年たちはこうした反学校的な態度をとっている側面もあるのではないかと私は考えている。人間の評価軸はもっと多様であっていい。にもかかわらず、勉強ができることだけを第一とし、それ以外の部分を鑑みないところは考え方として馬鹿げている。そんな人達に人間の本質など分かるものかという彼らなりの叫びが逆張り思考として敢えて教師の言うことを聞かずに突っぱねて反学校的なことばかりをしてしまう。誰だって自分の苦手なことばかりをするように強要されたら不快に感じるし、そうしたレッテルを貼ってきた人達に対して敵愾心を持ってしまうようにもなるのは極自然なことである。そうすると、彼らのとっている行動は悪質なものとはいえ、ごく純粋な形で抗議、主張していて、間違っているのは教師をはじめとする大人達の方なのではないかという気さえしてくる。一見非行少年はバカで、怠け者と思われるがちだが、実は曲がったことが嫌いな純粋な人たちなのである。

絵画療法への持論

<絵画療法は優れた療法であると思うし、実際に言語を扱えない人にとっては効果的な心理療法であることには違いない。しかしながら、頭のなかにイメージを描けない人やイメージ化したものを絵で表現するのが苦手な人にとっては効果的な心理療法とは言えない。

実際に自分も過去に絵画療法を受けたことがあるが、イメージ化や絵を描くのが苦手な自分にとって合わない療法であった。そもそも描画によるアウトプット力が低すぎるため、心理士が正確に自分の人格を推し量れていたか甚だ疑問である。よく絵画療法の説明として絵の巧拙は関係なく、どんなに稚拙な絵であっても患者が実際に描いた絵から患者の人格を捉えていくとあるが、あまりにも技量が低すぎると患者のパーソナリティを正確に捉えることができないのではないだろうか。

ただ、絵画療法のようにいくつかのテーマを用いて絵を描かせる取り組みは斬新で画期的だと思うし、独創性の高い療法であることには違いない。こうした療法を生み出したのが中井久夫の凄いところで、世間から称賛されているところでもある。

当ブログの文章や画像を無断で転載することは厳禁です。もしそうした行為を働く者がいた場合、然るべき法的措置を取らせていただきます。