怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

スパイスのない生活

誰にも存在を認識されないで死んでいくこと、誰の記憶にも残らずに死んでいくことは悲しいことだろうか。哀れな生き方だろうか。これは善悪の判断が容易には下せない。他者ありきでしか物事の価値や意味を捉えることができないのであれば、それは良くない生き方と言えるかもしれない。逆に他者がいなくても良いと考え、生活は自分一人で満たされていればそれで良いと考えるのであれば、それは悪くない生き方と言える。

 

この世には性質の異なる人間が沢山存在し、そうした人間で社会は構成されている。他人の存在が人の生活に彩りや変化をもたらし、また、人間を劇的に変容させたりもする。それは良い方、悪い方それぞれの側面がある。人と人とが関わりを持つことでお互いの影響を受けてそれぞれの人間がこれまでとは違った人間になってしまう。そうした意味では、他人とはスパイスのようなものである。どんなに「無」で固められた人間であってもスパイスの力を受けることで味が美味しくなったり不味くなったりする。味付けが大きく変化するという点において、スパイスは魔法のようなものである。スパイスにはそんな効能がある。

 

どうして自分はこれほど他者に向かっていこうとしないのか、人を必要としないのか、それがよく分からない。いくつか理由が考えられるが、それはあくまで仮説の範疇に留まり、自分にはその理由を正確に把握することができない。

 

一つは、元々人と関わりを持ちたいという欲求に乏しいこと。この世界に存在する誰ともコミュニケーションを取りたいという欲求がない。もちろん人の誘いを受ければそれにきちんと応じるし、話しかけられればしっかり受け答えもする。しかし、自分から人に声をかけるなり、遊びに誘うなりして他者と関係を持つことはない。そうした欲求に駆られることが全くないのだ。別に生まれたときからそうだったわけではなく、幼い頃はそうした行動を自然に取っていたと思うが、記憶が曖昧なため、必ずしもそうだったとは断言できない。しかし、自然に人と関わりを持っていたし、それなりに社交を楽しんでいたように思う。

 

二つは、抑圧された感情があってそれ故に人と関係を持つことが禁じられているということ。

 

これに関しては自分で自覚することはできない。というのも、自分が今、何を感じているか、何を求めているか、ストレスが溜まっているのか、疲れがあるのか、そうしたことすら分からないのだ。だから、他者と関わりを持つことが危ないことだと自覚することもできない。そもそも他者と関わりを持つことの何が危険なのだろう。自分に刺激を与えてくれる、自分に様々な感情を引き起こさせてくれる、自分の知らない一面を気づかせてくれる。そんなに悪いことばかりではないはずだ。自分にとって否定すべき対象でしかないのか。


人間というのはどうも人生を語りたがる。それ抜きでは生活が回っていかないから当然といえば当然なのだが、それにしても人生について熱弁を振るい、人生というもので頭の中が一杯である。人生を無視して人と人との関係や人間同士のコミュニケーションは成り立たない。どんな観点から物事を語ろうとしても、入り口は人生から始まり、そこから派生して色々なモノが生みだされ、一つの輪のようにしてそれぞれが結びつく。それ抜きでは人と関わりを持つことも、繋がりをもつこともできないのだ。しかし、人生という大きなものが失われれば、人と関わりを持つことができなくなる。自分以外に存在している無数の人間がこの世界から消え失せ、ここには自分しかいないという状況に置かれる。


この世は諸行無常で刻一刻と日常は移り変わっていくと言わられているが、自分にそれは当てはまらない。時計の針は止まったままだ。今のままでは恐らく時計の針が動くことはないだろう。静止したままのガラクタ時計はこのままどこかの収集業者に回収されて適当な場所で処分されるのが妥当であろう。


ここでいつも考えるのが次のようなことである。

 

自分に肩書きをつけて無理にでも人と関わりを持つべきなのか、それともこれまで通り人と関わることなく自己完結的な生活を続けていくべきなのかということ。どちらの生き方がよいのか未だによく分かっていないし、どちらも間違っているとは言えない。しかし、どちらの生き方を選択したとしても自分が孤独であることに変わりない。一人ぼっちで、孤独で、自分の世界から抜け出ることはない。どちらの選択も人間とは出会えないという点で同じである。

 

 

 

 

 

 

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