怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

全一性を欠いた生き方

今の自分の生活はホームレスの側に寄っている。基本的に人と関わらずに一人でいるときの人格と周りとコミュニケーションを取っているときの人格の比率は9:1である。



ホームレスといっても路上で生活することを意味するのではなく、ありとあらゆることに関心が持てなくなったという点においてホームレスという言葉をここでは用いている。もしこの世界に自分しかいないのであれば、別に何に関心を持たずとも特に問題は生じない。他に人はいないのだから、自分が物事に無関心であろうと生活は回っていくだろう。だから、そのまんまの状態でも何ら問題はないし、無理に仮面を被って人と接する必要もない。媚び売りやお世辞も不要である。

 

しかし、現実はそうではない。この世界には無数の人間が存在し、他人と共にヒトは生きている。知識や技術、能力があれば別に一人で生きていくことも可能なのかもしれないが、それをするにもやはり運や能力などが必要で、決して誰にでもできることではない。しかし、人に頼らずに一人で完結できる生活を実現させたとして、それを続けることはできるのだろうか。精神面などを考えると、とてもそうした生活を長く続けることはできないのではないか。なので、多くのヒトは、身の回りの人間や国家や政府に依存しながら生きていくほかない。実際のところ、みんなそうやって生きている。

 

他人と共に生きていくのが前提な社会の中で、人生そのものに関心を持っていないと社会生活を営むのが非常に難しくなる。というのも、人と人との関係は人生と人生の結びつきにあり、お互いが自分の人生を語り合うことで社会生活が成立する。人生が最大のテーマであるし、相手も自分に人生があるのが当然と考えて自分と接してくるので、その時に人生に関心が持てないでいると(人生がないと)、人と関係は結べない。それはもう社会的に存在が許されていないようなもので、そうした者の存在を容認する場所はこの世界のどこにもない。というわけで、いかなる事柄に関心のない人間は他者と繋がる道が断たれている。

 

こうしたように、周りから存在を受け入れてもらうにはまず自分が人生の只中にあると言うことが大前提であるし、人生上の様々な事柄について関心を持っている必要もある。そうした問題をクリアしてはじめて人とコミュニケーションを取るという道が自分の目の前に開かれる。

 

僕はホームレス側の生活に偏っているが、そうした生活を続けることは難しい。この社会で生きていこうもんなら、どうしても他人との関わりが必要になってくるからだ。他人と関係を持ちたいという欲求がなくても、生活費を得るには僅かな時間であっても他人と共に生活をする必要がある。そうしたときに、仕事だけのやり取りであれば特に問題は生じないが、プライベートのことまで聞かれると困惑する。仕事上の関係の範囲を超えてプライベートの領域にまで踏み込まれるとどう対処していいかわからなくなる。というのも、自分には生活というものがないからであって、それ故に相手と会話そのものが成り立たないからだ。人付き合いとか趣味とか、興味、関心事とか、グルメとか娯楽とかファッションとかそういった人生にまつわること全てに関心がないので、人とコミュニケーションを取ることができない。自分と他者との間にコミュニケーションというものが成り立たない。それが成り立つにはお互いが人生を生きているという条件が必要なのだけど、自分にはそれが欠けている。これは人付き合いをしていくに当たって致命的な問題である。

 

今の自分はホームレス側の自分と、世間の中での自分との間で大きく揺れ動いていて、両者の間を行ったり来たりしている。一人でいるときには死んだような生活を送り、人と接するときに限って世間の顔になる。自分の居場所はどこにあるかと考えているが、それはまだどこにも見つからない。

 

 

 

 

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