怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

欲望モンスター

日中、街を歩いていると様々な人々の姿が目に飛び込んでくる。カフェでおしゃべりを楽しむ人、飲み屋でベロンベロンに酔っ払ってどんちゃん騒ぎをする人、有名スポットに足を運んでご満悦な人、グルメに没頭する人、おしゃれを気にしてファッションのことばかり考える人、新作商品があるとすぐさま店に駆けつけて行列に並びたがる人などみんな本当にいろんなことに関心を持っている。そのことに僕はとても面食らっている。そうした世間の流れについていけないというか、なんでそんなことに関心を持っているのか不思議であるからだ。

世間の人たちはとにかく欲のスタンプラリー集めに熱狂していて、より多くのスタンプを集めてそれを埋め尽くすことに必死になっているように見える。スタンプ欄を埋めてそれが埋まったらまた新しいスタンプカードを発行してもらって更に空欄を埋める。その繰り返しである。彼らは好きでそうした行動をとっているのか、それとも本能によってそうしているのかは僕にはよく分からない。しかし何も難しいことなど考えておらず、ただ感情に従って何かをしているように見える。そしてそれは別に悪いことではないと思う。なぜなら人間には感情や欲望があり、相対評価によって生きようとするのが人間であるからだ。それが無くなってしまえばひたすら無と向き合うしかなくなる。そしてそんな生活も長くは続かない。だから、そうした行動を取りたくなる気持ちもよく分かる。

しかしながらそうした人たちを見ていると、どうしても自分の普段の行動や興味、関心に目がいってしまう。僕は、そちらの世界というものに関心を寄せられることがない。無理にそちらに関心を寄せることはできるが、「自然」に関心が向くことはない。この「自然」にというのが僕にとってとても大きな問題で、日常に自然さがない。「自然さ」が、自分の存在や自分の生活において致命的に欠けている。だから本能の赴くままに何かをしている人が自分にとって興味深い観察対象なのである。僕は彼らに否定的なのではなく、彼らが自分に疑問を生じさせてくれる存在であるからこそ僕は彼らの行動に着目しているのだ。

自分はそうした欲を満たしたいという欲求が乏しいからなのか、衣食住を満たす以外のことはほぼ何もやっていない。なぜそちらの世界に働いて引き寄せられないのか自分はとても気になるし、言語化したいと思っている。欲望を満たすことや我を失うまでに何かに夢中になること、人生を楽しむことに関心がないからではなく、何かそこに大きな問題が潜んでいるからそれができないのではないか。欲望や人生上の様々な問題に振り回されることはあまりないが、自分でその状態を望んでいるというよりも、(人生楽しければそれでいい、欲を満たして生きるのが善いという考えを自分は持っていない)そうならざるを得ない必然性があってそうなったのではないかと自分で認識しているが、それはどうだろうか。もしそうだとすると僕はこのままの状態に留まっているしか選択肢がなくなる。そちらの世界に行きたいのであれば行けばいいが、それはその選択を選べるという権利があるからこそそれれができるのであって、それはとても恵まれていてまだ救いがある。しかしそうした選択の余地すらなく、受動的な姿勢でいることしかできない状況というのは救いがない。「無」の世界を「無」のままでいることしかできないのだから。偶然的な受動的姿勢と、必然的な受動的姿勢というのは置かれている状況がまるっきり異なる。そうした問題にもがき苦しみ、足掻きまわっているうちに少しずつ自分というものや人生がはっきりと見えてくるのだろうか。

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