怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

希薄な生

1.出産と人生の始まり

二人の人間が性交することで(体外受精を除く)一つの生命体がこの世に生まれ落ち、ひとりの人間の生活が始まっていく。人は生活を進めていく中で、様々な対象物で世界が構成されていることを知る。遊びに仕事、学業に趣味、娯楽に恋愛、結婚に子育てなど自分を刺激するものでこの世は満ち溢れており、それらは、自分にとってどれだけ重要なものなのか、自分を豊かにするものなのかなどを考えながら、自分の人生に意味付けや価値付けを行っていく。

2. 生の希薄さ

出産と同時に生活というものが始まっていくわけだけど、自分はこの「生」の感覚というのがとても弱い。自分の中で「生」が機能しているという感覚が希薄である。


それは、街を歩いている時も、自転車に乗っている時も、買い物している時も、外で仕事をしている時も同じである。実際に自分でそれに取り組んでいるという感覚に乏しい。自分の肌で、身体で、物事を行っているという感じがしない。行為者としての自分の存在が希薄で、意識は別のところにあるという感覚が拭えない。注射器で血を吸い取られるように、身体から「生」の部分が抜きとられて空っぽなのが自分である。

3. 死>生

自分は最初から「死」のポジションにいたのではないかと仮定してみるのはどうだろうか。ここでいう死とは、人生の喪失及び、人生への関心の喪失という意味で死を捉えている。いくらかの人がそうであるように、死への恐怖心や忌避感を表しているのではない。「生」に引き寄せられなくなったという意味で「死」という言葉を用いている。

たとえば日常を送る中で様々な人間の生活がいやが応でも目に飛び込んでくる。彼らは皆人生に酔狂している。食事やグルメ、買い物、ファッション、旅行、アウトドアなどなど例を挙げればきりがない。それは好きでやっているのか、虚無から目を逸らすためなのか、暇つぶしでやっているのかはさておき、皆何かに夢中になっている

逆に自分は多くの人が関心を持っていることに関心を持てない。そちらの世界に関心が向かないというか、外の世界に溢れるありとあらゆることに関心が引き寄せられない。いや、関心が向かないというのは正しくない。なぜなら実際に外の世界に関心を向けようとしているのだから。しかし自然に関心が向くというのではなく、意識的に、意図的に感心を向けようとしている。

またそれとは別に、外の世界に溢れる全てのものが、自分とは距離の遠い、馴染みの薄いものとなってしまった。スーパーへ買い物に行くと、様々なものが店頭に置かれている。その物一つ一つにも性差があって、どれ一つとして同じものはない。商品の価値は貼られている値札や姿形、デザインによってそれぞれ異なる。しかしそのもの一つ一つが自分にとってどれも同じに見える。違いというのが全然わからないのだ。値段や大きさ、デザインなどは物を区別するための重要な判断材料だと思うが、そうしたものが自分にとって意味を為していない。世界がまっさらになってただモノや人がそこにあるだけである。そこに中身などさらさらない。実体のないものに普段から触れているのが自分である。

最初から自分に「生」がなかったと言いたいわけではないが、もしかすると人生のどこかの段階で「生」を失い、「死」の世界を生きるようになったのではないか。これがいつから始まったのかを自覚することは難しく、過去の体験や記憶を振り返ることや内省することでしか、その疑問の解明に近づくことはできない。ただ言えるのは、気づいた時には既にそうなっていたということ。今は外の世界に自然に心が引き寄せられるようなことはなく、無理に外の世界へ関心を持とうとする姿勢で人生と対峙している。一度このような状態になってしまったとしたら、これから先もずっとこうした状態が続いていくのだろうか。だとすれば、それはニセの「生」でしかなく、とても「生」とは言えないものである。

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