怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

自己の希薄さと人生に対する関心のなさの関連性

精神科医であるドナルド・ウィニコットは、偽りの自己という概念を提唱した。これは周囲の人間が子供に対して社会に過剰に適応するように要求することで、子供の人格が偽り化するというものだ。分かりやすい例としては、親や教師がいい大学に入るために勉強しろとか、立派な大人になるために礼儀礼節を身に付けろといったものが該当する。

程度の差こそあれ、人は誰しも周りの人間から社会に適応するように教育される。全くそうした教育を受けずに年齢を重ねた人間などいないといってよい。にもかかわらず、偽りの自己が肥大化する人間と、そうでない人間とがいるのはなぜなのだろうか。

自分は、自己が非常に希薄な人間である。それと同じくらい、人生に対して関心のない(人生そのものがない)人間である。自己が希薄なことと、人生に関心がないことは大きくリンクしているように思える。どちらが先に生じているのかはよくわからない。自分というものが成り立っていないから、人生という大きなテーマが自分の中に存在しないのか、それとも人生がないから自分という存在が成り立たないのか。
自己が成り立つには、他人との関わりが必要なのは頭では理解しているけど、その他人と関係を結ぶ上で必要なものが何もないから他人と関係を構築することもできない。結果、人と関係を結ぶこともできず、人生というものがを欠いたまま、一人で死んだように生きていくしかない。

自分は別に上記で述べたような育てられ方をしたわけではないし、周りから周りにとって都合の良い人間になってくれるように押し付けられた記憶もない。ただ、自分の意志で物事を選択する機会を持たないまま育った人間であるとは思っている。また、周りから放任主義として育てられてもいる。しかし、そのような育ち方をした人はごまんといるし、彼らがみな自己が希薄であるとは限らない。

それにしても自分はなぜこれほどまでに自己が希薄なのだろうか。自分の世界に何もないのだろうか。

当ブログの文章や画像を無断で転載することは厳禁です。もしそうした行為を働く者がいた場合、然るべき法的措置を取らせていただきます。