怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

ドーパミン中毒 

「ドーパミン中毒」

自分はこの本に出てくるような人たちが心底うらやましい。対象はなんであれ、何かに夢中になって時間の流れを忘れるほどの体験をしている事実がとても羨ましい。こうした人たちを見ると、自分はこうはなれないなと思う。今後も夢中や没頭とは無縁の生活を送るような気がしている。

さて、ドーパミン中毒について。ドーパミンは脳内の神経伝達物質と呼ばれ、これが過剰に放出されると人間は一種の酩酊状態に置かれる。過度に快を感じ、またそれを体感したいと思うことで、何かを追い求めていくようになる。快を感じることで、気分が良くなり、またその快を感じたいと考えて行動を起こすようになると思いきや、実はそうではなく、元々何かを追い求めたい、快を感じたいという欲求が備わっているからこそ、こうした行動を取るそうなのだ。じゃあ、無気力すぎて何もする気が起こらない人は、そうした欲求が乏しいのだろうか。このやる気スイッチというのがどうも自分には備わっていない。エネルギッシュなひとたちのように、とにかくスケジュールをパンパンに詰めて休む暇なく、活動的に行動したいとまでは思わないけど、少しは関心の持てるものが見つかればいいなとは思う。

それからドーパミンについて考えていくうちに、資本主義社会のことを連想せずにはいられなかった。どうして人間がこれほど何かを追い求めるのか。あるいは、どうして社会にこれほど膨大な数の物やサービスが誕生しているのか常々疑問に感じている。既にあるものだけで生活を回していくことは十分に可能であるのに、次から次へと新しいものやサービスが生まれていく。人間が刺激を求めているので、人間の要望に従ってこうしたものが世に生み落とされるのか、それとも資本を今以上に回していくために、人間の考え(ドーパミンを分泌したい、もっと快を感じたいといった心理)を良いように活用して、新しいものを生み出しているのか、どちらなのかよくわからない。

今ある物でも十分に社会は回っていくと自分は考えているが、それでは満足しない人たちがいることも理解している。だから、物やサービスが必要なのだろう。実際、街を歩けば、この商品を買いませんかという広告が至る所にある。ネットにアクセスすれば、このアプリをインストールしませんかと促される。この事実からも、物やサービスは必要なのだ(必要とされているのだ)。

最後に印象に残ったのが、精神科医と女性患者とのやり取りだ。精神科医に助けを求める女性患者に対し精神科医は、「ネットやSNSから離れる時間を少しは設けて、自分と向き合う時間を作るのがいいのではないですか。」と助言するのだけど、女性患者はその助言に真っ向から反対して「そんなの耐えられそうにありません。それってすっごく退屈なのでは」と言い放った場面である。自分と向き合う時間やぼーっとする時間を少しも取ることに抵抗があるとは、ネットやSNSが人間に与える影響力というのはとてつもなく凄まじい。

人間が刺激のない単調な生活や、同じことの繰り返しに耐えられないとなると、今後も新しいものが生み出されることは避けられないだろう。

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