怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

石原慎太郎「凶獣」

石原慎太郎氏の著書「巨獣」を読み終えました。

この本は、大阪教育大学付属池田小事件をテーマをした書籍です。

p.204にはこう書かれている。

<<生の大方を過ごし八十半ばの老年にある私が、まだ幼年にあった多くのものを一方的に殺戮し、己も人生の半ばにして殺人者として処刑された異形な男の引き落とした出来事に戦慄し、その意味を悟り、それを通じて人間の運命といおうか、人間の人間としての存在の意味の深淵に少しでも触れたいと願ったのは、私自身が己の「死」を強く意識する年齢に至ったせいかもしれぬ。>>「死」を意識したことがこの書籍を書こうと思ったきっかけだそうです。筆者は三島由紀夫などと親交があったことから、「死」に対する思い入れは人一倍あったのかもしれない。しかしそうはいっても、宅間氏と結びつくのはあまりイメージが湧かないが...。

さて、本の構成についてだが、石原氏による一人称の語りと、臨床心理士との対談の二部構成で、ページは進んでいく。特に気になったのが、筆者が何度も繰り返し宅間氏の脳構造について言及しているところだ。筆者はこの本で直接明言こそしていないものの、脳の異常性が犯罪に結びつくという考えを持っているように思えるし、実際に宅間氏があのような残忍な犯行を起こしたのは、彼の脳の働きによる影響を受けてのことが大きいのではないかと考えている。そして、その立場を崩したくはないようだ。しかし、そのことを公の場で伝えることは、犯罪が減刑されることになる可能性が存在し、もしそうなってしまえば、被害に遭われた遺族の方々から猛烈なバッシングを受けることにもなる。だから、筆者は自らの主張を強く押し通そうとはせず、あくまで断定的でない口調ぶりで、臨床心理士の見解を聞き出そうとしている。そして、脳の機能不全が犯罪と結びつくのかに関していえば、前頭葉の機能不全の問題が暴力的な犯罪に結びつくことへの根拠を実例を交えてはっきりと説明している。そうしたデータも実際に存在している。現に犯罪行為をしでかした人の脳を調べてみると、脳に異常があることが判明している。しかし、それを世間に流布してしまえば、脳に異常がある人は犯罪行為をする恐れがあるとの偏見を知らしめてしまうことにもなりかねない。もちろん脳に異常があるからと言って皆が皆犯罪行為を引き起こすとは限らないのだが、過去にこうした事例があったことを提示してしまえば、脳に疾患を抱える人や脳に異常がある人が犯罪者予備軍として捉えられることは十分ありうる。だから、こうしたことはあまり公の場では語られないし、もし仮にこうした発言をしてしまったとしても、それを揉み消すような方向に何としてももっていこうとする。これに関しては宅間氏を支持するつもりはないが、脳に異常があるのであれば、こうした人たちを保護することも必要なのではないかと思う。それを実際に行うのが福祉なのか誰なのかは分からないが、社会が存在権を保障してやるのも社会の役割の一つなのではないかと思う。これは宅間氏本人も言っているように、欲が抑えられない、衝動的に何かしてしまう特性があるそうだが、彼自身もその脳の働きによって苦しんだところもあるのではないか。そうした意味では、彼自身は加害者でありながら、被害者の立場でもあった人間であると私には思える。

最後に、石原氏は、>><<この齢に至るまで私自身は様々な「死」を垣間見、私自身も「死」の影にさらされてきたものだが、それにしてもこの出来事は被害者も加害者も含めてあまりに無残で痛ましい。この出来事をつくりもたらしたものは一体誰、一体何なのだろうか。この世は不条理に満ち満ちているが、それをもって我々に存在を与えてくれた神を咎める資格など我々にありはしまい。>>と結んでいるが、本当に一体誰がこうした事件を作り出しているのだろうか。宅間氏は、死刑執行前に、世の不条理を唱えた格差社会について問題提起していたが、生まれた時点で格差が生じているのにも拘わらず、同じ競争社会に放り込まれて周りと同じように競争することを要求していることがこうした事件を生み出している一つの側面があるのではないかと思える。つまり、社会の側がこうして事件を引き起こすきっかけを与えているのではないのかと。そうしてみると、人間を評価する仕組みや価値観についての見直しが今の社会に必要不可欠なのではないかと思う。

当ブログの文章や画像を無断で転載することは厳禁です。もしそうした行為を働く者がいた場合、然るべき法的措置を取らせていただきます。