怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

人に興味を持つということ

人はなぜ人に興味を持つのか、人に興味を持つとは一体どういうことなのかについてよく考えている。例えば、よく話として聞くのが、あの人は普段どんな生活をしていて、どんな時に喜びを感じるのか、何をしている時が楽しいのか、趣味はいったい何なのかというようなことが気になるということであるが、個人的にはそんなことを知っていったい何になるのかと思ってしまう。なぜならそうした情報は誰の役に立たないし、誰にとっても意味を為さないものであると思うから。

例えば、僕がラーメンが好きだとする。よくラーメンを食べていて美味しいラーメン屋さんを度々巡ってはその感想を口頭なりSNSなどにアップするなりして人に伝えるということに注力しているとする。そのことは実際、誰にとってもどうでもいいことだ。そんな情報は誰の役にも立たないし、誰も欲していない。誰にとってもどうでもいい情報である。それなのに人はそうした情報に興味を持って人と繋がりを持とうとする。その理由はいったい何なのか。

ここでは話を二つに分けて考えることができるだろう。

一つは人間が生得的に、人に自然に興味を持つ存在であるということ。これはもう本能的に組み込まれているようなもので、個人にはどうこうすることもできない。

いまひとつは社会で生きていくために他人と関わりを持たねばならない状況であるから他人に興味がなくても興味を持っているふりをして接していかねばならない状況からそれが生じているということ。人間は他人と共に生活していて、そこではイベント事が多数発生する。それは学業や仕事、恋愛、結婚など人と関わりを持つ必要性のあることばかりだ。そうした時に、人に関心をもっていないと色々と不都合が生じてくることがあると思う。例えば、ペアやチームで作業する必要性のあることが多い状況も多々あるだろうし、何にせよ共同体の下で生活している以上、他人にまったく関心を持たないという状況から逃れることはできない。このように本能的に人に興味を持っているのか、社会で生活するために人に興味を持っているのかは僕には区別できないし、本心もよく分からない。そもそもこの問題を二つに分けて考えること自体難しい気がしている。少なくとも自分にはこの問題はごっちゃになっているから話がより複雑化している。

最後に人に興味を持つというのは、その人の持つ一部の性質に惹かれているだけなのではないかと考えている。例えば、B'zが好きな男性が二人いるとする。Aには関心を持つけど、Bには関心を持たないとする。この場合、Aの性質のどこかに反応して、その部分が気になったからこそB'zが好きなところにも後から反応するようになっただけのことであり、もしAさんの性質の一部に関心を示さなければ、AさんがB'z好きであることにも関心を持たないのではないか。このことはAさんがB'z好きであること自体に関心持っているわけではなく、Aさんを構成する要素の一つやその複数に関心を持っただけのことである。もしB'zが好きな人に興味があるのであれば、Bさんのみならず、それ以外のB'z好きな人にも興味を持つはずである。

と書いていて自分でも何が何だかよく分からなくなってきたが、そんなことを考え、そんなことに関心を持っている。

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