怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

外の世界に対する意識や関心の変化

いかなる行動をとっても何も感じない。美しい花々を見ても、ネオンに煌く高層ビル群を見ても何も感じない。世界の対象物すべてが自分とは関係のないものになっている。自分はそこから切り離され、関与することもできず、外の世界は目まぐるしいスピードで流動していく。

なぜこのような事態が引き起こされているのだろうか。脳が退化しているからなのか、感性が劣化したからなのか、感情を司る機能がうまく働いていないからなのか。考えられる要因をいくつか列挙してみたけど、その理由はよくわからない。そしてそれらは何によって引き起こされているのだろうか。生の現実に触れていないからなのか、外の世界を生きることができていないからなのか。考えれば考えるほど置かれている状況の説明が難しくなって何が何だか分からなくなる。

それでどうするのがいいのだろうか。やはり何でもいいから自分の存在を支えてくれる対象物を見つけるのがよいのだろうか。色々と手をつけてはいるけれど、何も感じないので何かを継続してやり続けることが難しい。内面に変化が生じないまま何かを続けることはとても難しいのである。このことはこれまでの経験からもよくわかることだ。活動の対象は何でもいいが、それをすることで感情の針が少しでも動くのであれば、継続して何かに取り組むことも可能なのであるが、感情の針が少しも動かない以上、モチベーションを維持することは難しい。そこはやはり強い目的意識がないと継続して物事に取り組むことは極めて難しいのだろう。様々なことに手を出してみるも、すぐに飽きてしまって結局、何一つ物事が長続きしない。

現状をいうと、外の世界に意識を向けることが困難になっている。子供の頃のような損得勘定や打算的な考えを抜きにした無意識的な外の世界への魅惑、関心といったものが現時点では喪われている。そうすると自分にしか意識が向かなくなって自分の世界から抜け出せなくなる。一人でいる以外の選択肢はなくなる。しかし、それに耐え切れないのでまた外の世界に意識を向ける。けれども、何も感じないからまた一人の世界に籠もる。この繰り返しである。

もし外の世界に関心が向かない上に、いかなる対象物をも必要としていない人がいたとしたら、彼らはどうやって生気を保っているのだろうか。というよりも、生気を保つことができるのだろうか。このことは以前からずっと疑問に思っていることだ。

本来こんなことは考える必要もないのだが、何かに没頭することが困難なので、どうしてもこのような些末なことを考えずにはいられない。

 

 

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