怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

低視覚の世界

物の形、姿をイメージするのが苦手だ。どんなに頭を働かせても何のイメージも思いつかない。また、何か思いついたとしてもそれを一枚の紙の上に表現することができない。我々は大量のものに囲まれながら日常を送っている。そのモノを視覚で捉えてどう処理すればいいのか考えも及ばない。

日常でこうした力を必要とする場面はたくさんある。

例えば、部屋の整理整頓だ。綺麗に部屋を片付けるには何が必要で、どの収納用具を使って作業を行えばいいのかがまずわからない。必要なものが何で、それを使ってどのように物事を処理すべきか理解できないのだ。それだから部屋をキレイにすることができず、大量のものが乱雑に散らかったままである。

また、ロープでモノを縛るときもそれと同様に、紐で上手くモノをくくれない。完成像を頭の中に描き出すことができないからこの先どういった手順を踏んで作業を進めていけばいいかわからない。従って、ロープでモノを結べないといった具合だ。

さらに日常生活を送る上で必要がないと言えるものだが、娯楽の嗜好品として小説が存在する。その小説においてもこれらの力が必要とされる。小説は文字だけで物語が構成されているからそれだけを頼りに自分でイメージを作ってお話を読み進めていく必要がある。ところが、実際に小説を読んでいても情景描写を上手くイメージすることができない。イメージしたとしてもそれは既に頭の中に蓄えられている知識や情報を頭の中で再生するだけで、想像力を少しも働かせていない。自分の場合、過去の記憶体験を引っ張ってきてそれをそのまま小説の世界に適用しているだけである。つまり、ゼロからイチなど何も生み出しちゃいない。普段小説を読むことはあまりないが、小説の読み方はいつもこうである。

 

自分は想像力や空間認識能力、視覚情報処理能力が著しく低い。こうした能力が低いから物事を上手く行えないでいる。空間に身を置いて物の形、姿から必要な情報を瞬時に判断し、頭をフルに働かせながら物事を処理する力が弱い。

 

視覚で情報を処理する力に優れている人であるならば、図や絵を用いて問題を解決することも簡単なのだろうが、自分は視覚情報を処理する力が弱いからそれらに頼ることが難しく、言語にしか頼れない。なので、問題解決に難渋することもしばしばあって、そのことは生活を一層厳しくさせる。

 

図や絵で物事を捉えるのが上手い人と自分は何が違うのだろうか。単に脳の作りが違うという観点からすべて説明できるのか。右脳が全然発達していない、右脳の働きが著しく弱いといったように。

 

使える脳力の範囲が広がれば、問題解決や思考がもっと短時間で効率よく行えるのかもしれないが、自分にはその範囲がとても狭いから少ない考えのもとでしか物事を処理できない。それもワンパターンで応用性の低いものなので必ずどこかで息詰まる。イメージや図、絵をうまく扱うことができれば、考えの幅も広がるし、もっと多角的な視点から問題を捉えることもできるけど、今の自分にできることは言語を通して思考すること、問題を解決すること、想像することだけである。それらの技量も低く、人より時間がかかるかもしれないが、何とかやっていくしかない。

 

 

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