怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

他人のいない生活

普段から人交わりのない生活を続けている。最後にプライベートで人と会ったのはいつだったか。昔のバイト先の後輩とご飯を食べに行ったのか最後だったのではないかと思われる。軽くご飯を食べてすぐに解散。長々と喋ったりはしない。というのも話すことがないのでご飯を食べている最中に話が尽きる。自分は外の世界に関心がないので(というより、関心が持てなくなってしまったので。それが一時的にしろ)、自分の側から提供できる話題がない。そうすると相手の話を聞くしかなくなるのだが、相手もそんなに話せる話題がないのですぐに会話が切れる。

単調で平凡で刺激のない毎日。他人がいないからこうした生活を送っているのだろうか。いやもし仮に他人がいたとしてもそれは「ニセ」の生活でしかない。それは繋がりのないもので最初から自分と他人の糸は切れている。

リアルでもネットでも人との繋がりが無い毎日。人と出会っているけれども、そこに出会いはない。なぜなら全く自分を出していないからだ。普段から自分のことを語るといったことがない。だから出会いというものが発生しない。出会いというのはただお互いが出会うだけではダメで、お互いが自己開示することで成り立つものである。そうした作業を通してでないと出会いというものは発生しない。

自分はいつからこんなにも他人を求めなくなったのだろう。気付いた時には他人を必要としない人間になっていた。他人に伝えたいこともなければ訴えかけたいこともない。だから他人に自分の時間を割くこともない。

明日も明後日も来月も来年も同じような一日を過ごすだろう。このままいくと自分がこの先どのような道を歩むのかほぼ見えてしまった。先の決まった人生。しかし別にそのことに不満があるわけではないし、自分が変わりたいという気持ちもない。自分が変わるとは自分の状態および日常が不安定になってしまって、激しい変化に振り回されることを意味する。そうした状態や生活を自分は望んでいない。だからこうやって一人静かに生活している。他人の生活に介入しないし、他人が自分の生活に介入してくることもない。自分にとってそれがベストな状態だからそうしているだけだ。それは望んでそうしたというよりも、そうでもしないと社会の中で生存することができなかったからこのような生き方をするしかなかったのだろう。つまり、自分は他人と隔絶した生活を送ることを運命づけられていたのだ。

しかし、そのような生活も長くは続かない。何しろ自分一人で生活を完結するしかないのだから嫌でも虚無や厭世の感情と向き合わざるを得ない。食事も、買い物も、遊びも、余暇も全て自分一人で完結する。そこに他人はいない。喜怒哀楽の感情はすべて自分の中で処理し、日常で起こりうるすべての出来事を自分で受け止めて自分で払いのける。

いつかは鉄筋コンクリート造りの建物に住むのをやめて木造建築に住むことを決心するときが来るかもしれない。その時こそがおそらく外の世界を信用した時なのだろうと思う。

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