怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

エーリヒ・フロム 愛するということ

 

本書は愛のテクニックや必勝法を教えるものではない。私たちに馴染み深いとされる愛について理論の面から切り込んでいく本である。

 

筆者が主張するような愛を実践できている人はほとんどいないのではないか。

 

p.27 愛は人間の中にある活動的な力である。人間をその仲間から隔離するところの壁を破壊する力であり、彼を他の人々を結びつける力である。愛は彼をしてこ孤立と分離の感覚を克服せしめるが、しかも、彼をして彼自身となり、その本来の姿を保持するようにさせるものである。愛においては二人の人はひとつとなり、しかも二つにとどまるという矛盾したことが起るのである。

 

愛について何一つ悪いことは語っていない。愛する力の素晴らしさを素直に力説している。引用文は載せていないが、この他にも愛とは、この世界並びにすべての人間を愛するということである、それができてはじめて愛するという行為が成り立つというような主張していて、それについては丸っと飲込めないというのが正直な感想である。

 

こうした愛の形を実践している人は一体どれくらいいるのだろう。

例えば、重い病気を持って生まれてしまったとしたら全ての人間を愛せるだろうか。そのような運命を背負ってしまった自分に否定的になったり、のうのうと生きている周りの人間に対して負の感情を向けたりすることは少なからずあるのではないか。どんなにそれが自分の運命だと自分で納得付けることができたとしても、五体満足な人間に対して嫉妬や憎しみの感情はないか。それはなにも持病だけに限ったことではない。深いトラウマ経験のある人や裏切られた経験を持つ人は純粋に人を信用できるのだろうか。敵愾心をむき出しにして、あるいは不信の感情を持って他者と対峙するのではないか。他にも学校や職場において、周りからいじめや暴力などを受けて心を歪められた経験のある人は、警戒心が働いて人と距離を置こうとするのではないか。こうした経験の全ては人や世界に対して不信感を募らせ、ポジティブな印象を持てなくさせる。従って、全ての人間や世界を信用し、愛するというのは誰にでもできることではないと思うのだ。もしそれを実践できている人がいるとしたら一体どれくらいいるのだろうか。数としてはとても少ないのではないか。

 

p.29 愛は受動的な感情ではなく、活動性である。愛は〈それに参加する〉ものであり、〈おちこむ〉ものではない愛の活動的性格は、もっとも一般的ないい方で表せば、愛とはもともと与えることであり、受けることではないと述べることによって描きだせるであろう。

 

p.31 私は自分自身が充満している、消費している、生きている。それゆえに楽しいという経験をする。ここでは、与えることは奪われることであるからではなく、与える行為の中で私の生が表現されるために、受けるよりもいっそう楽しいのである。

 

さて、自分の人生に「与える」という行為があったのかと振り返ってみると、そうした行為をとった記憶が全く見当たらない。自分から進んで「与える」という行為をとった経験がおそらく自分にはない。損得感情によって人に何かを与えている人も中にはいるのかもしれないが、自分はそれすらなく、そもそもそうした行動にすら駆られない。他者に介入することなく、生活は自分の中で閉じている。

これはおそらく相手の反応を見て自分の感情に変化が出るようなことがないことと(全くないわけではない。感じられにくいだけ)、相手の表情の変化を見たいという欲望そのものがないからこそ、こうした行動を取らないのではないかと思われる。これは自分の側に原因があって他人に原因はない。

 

 

まとめると、現代人の恋愛に「愛」はないのではないかと思う。一見愛らしいように見える愛も、資本主義社会の影響を受けて相手の属性や肩書き、地位、名誉、お金、ルックス、年齢などに惹かれて相手を利用して自分の評価を高めようとする利己主義性が垣間見える。愛そのものよりも、自分の欲を満たすため、自分の評価を高めるために愛を都合よく利用していて、自分を最優先に考える自己中心性が恋愛市場において支配的になっている。つまり、自己ブランディングを高めるのが第一で、愛はそのために都合よく利用されているものでしかないというのが巷に蔓延している愛の形である。

 

当ブログの文章や画像を無断で転載することは厳禁です。もしそうした行為を働く者がいた場合、然るべき法的措置を取らせていただきます。