怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

二極化した偏りの大きい生活

人間は誰しも仮面を被って生活している。仕事をしているときの自分、友達といるときの自分、家族といるときの自分、恋人といるときの自分、職場の同僚といるときの自分はそれぞれ異なり、複数の人格をうまく使い分けることで人間はこの世界を何とか生き抜くことができている。もし人間が一つの人格しか用いることができないのだとしたら、コミュニケーションがうまくいかなくなる場面というのは沢山出てくるだろう。その筆頭が、仕事でのコミュニケーションや友達との付き合い方である。その時は、それ相応の人格を用いてコミュケーションを取り、周りと軋轢が生まれないようにする。そして、それで社会生活がうまくいくのであれば、結果としてそれは良いことである。だから、複数の人格を用いて生活することがそれほど悪いことだとは思わない。社会で周りとうまくやっていくために自分をうまくコントロールしているのが人間である。ただ、その場合、他にいくつもの人格を確保することができて、そうした人格の存在があるからこそうまい具合に精神のバランスを保つことができているという現実もある。このことを世間で広く言い伝えられている言葉で表すと、素の自分でいられる人格というもの。この人格があるからこそ、普段の生活でどれだけ精神を消耗させたとしても、自分をうまくコントロールして何とか社会の中で生き抜くことができるのだ。

それとは反対に、何もない人格でしか生存することのできない人間、つまり、他に人格を確保できない人間というのは、人と関わりを持つときに過剰に仮面を被って接せざるを得ない。それは表面的には、前で述べたような人たちと通底するが、その人格の使い分け方や仮面の被り方というのは全然異なるものである。後者は人格がないのをあるかのように見せかけて生活していかなければならない。別に仮面を被って人と関わることをやめてもよいが、それをするとこれから先、他人と関係を持つことが一切できなくなる。というのも、それは他に人格を確保できないからであり、この仮面を被って接しようとする人格こそが自分と他人とを結びつける最後の砦だからである。いわばこの人格を通しての社会生活は社会の中で生きていける生命線とも呼べるようなもので、これを活用しないということは社会的生存権を失うのと等しい。社会や他人は人格がない人間がいることなど考慮に入れていないし、もしそうした人がいたとしても、彼らはそうした人間の存在を受け入れてはいない。だから、生涯にわたって仮面を被り続けなければならないという残酷な現実がある。そしてそれをしなければ人間と関わりを持つことができないという更なる過酷な現実も。人と関わりを持って生活するのであれば、これから先もずっと「無を有」であるかのように見せかけて生活していかないといけないし、それをしないのであれば、自分の存在が消えたも同然となる。つまり、どちらか片方に偏りがあって、その中間領域というものがない。自分はそれを探し求めているが、他の選択肢はいまのところ見つかっていないし、今後も見つからないような気はしている。だから、人と関わりを持つか、やめるかの二極化した偏りの間で生きていくしかないのだ。

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