怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

買い物の難しさと自分にとっての物の必要性

ランニングても始めてみようと思ってアウトドア専門店に行って色々と商品を物色していたのだけど、何も選べなかった。選べないことは何となくわかっていたけど、やはり店の中でグルグルしているしかなかった。結局、何も買わずに店の外へ出た。これだから買い物するために外へ出るのが無意味だと思ってしまう。いや、買い物に限ったことではないが、外に出るのが無意味だとしか思えない。なぜなら、ひたすら辺りを徘徊しているしかないからだ。そのため、外出しても時間を無駄にしたという感想しか残らない。ちなみに物が選べないという行動特性は、情報過多社会であるが故に膨大な商品の中から自分に適した物を選ぶことができないといったことから生じるのではなく、ここに置かれているどの物にも心が惹かれないということから生じる。

アウトドア専門店にはたくさんの人がいた。ランニングウェアを見ている人やゴルフウェアを見ている人、登山グッズを試着している人など本当に様々な人がそこに居合わせていたが、彼らは必要があってそこにいたのだろう。彼らは皆目的を有していて、その目的を果たすためにここで買い物しようとする。ランニング用品のフロアにいる人はランニングをするために店内を物色しているし、登山のフロアにいる人は登山をするためにここにいる。つまり、人は皆、自分の人生を豊かにしたい、自分の時間を実りあるものにしたいという動機から自分の生活に楽しみを増やそうとする。だから、何かを購入するために店で買い物するのだ。もし生活というものがなくなったとすれば、店に置かれているいかなるものも自分にとって必要のないものとなる。というのも、ここに置かれてあるものは全て生活のためにあるのだから。生活があり、その手段として店舗へ赴いて買い物しようとするのはごく自然なことだとは思うが、そうした考えがない人間はいったい何のために店で買い物しようとするのか。

自分が物を選択することができないのは、物を所有してそれを用いることで自分の人生を豊かにしていきたいという気持ちがないからだと思うこともあるし、生活を見失っているからこそ、そうしたものの必要性が自分にはないのだと思うこともある。
だからこそ、買い物するには一苦労を要し、店を出るまでの道のりには大きな困難がつきまとう。自分は一応買い物を済ませてはいるが、それも「自分はこれが欲しかったのだ」と自分に無理に言い聞かせて買い物を済ませているに過ぎない。そして、そうしたショッピングの形は、とてもショッピングとは呼べないものである。
もっと本能的に、直感的に、買い物しても良いものだが、自分にはそれが通用しない。自分としては買う物をあらかじめ固定しておいて機械的に物を買うのが一番良い。

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