怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

三島由紀夫とはなにものだったのか

三島由紀夫と言えば武士道精神や憂国の士、政治的テロ、右翼、ボディビル、美への憧憬といったキーワードからその存在を論じられがちだが、本書では、愛、恋、女性、現実との関わり方といった観点から三島由紀夫という一人の人間を文学者としてではなく、一人の人間として懇切丁寧に説明している。

僕は少しは三島の作品に触れてきたが、まだまだ読みも浅く、つゆほども彼の作品を理解しているとはいえない。いや作者やその作品を完全に理解することなど簡単にできることではない。作品理解とは、自分なりの解釈で作者並びに作品について語り、それらについて少しは理解できたと思い込んでいるだけだと考えているから。

橋本治は三島由紀夫に対して切り込み過ぎである。ここまで切り込んでいいのかというくらい一人の人間に深入りしている。これは三島が死んだからこそできることなのだと思うが、もし橋本がこういったことをしていると三島が知ったとしたら、恐らく渋い顔をして不機嫌になることは大体想像がつく。彼ほど人から自分の事を詮索されるのを嫌う人はいないだろうし、それをされることを心の底から望んではいないだろうから。それは自決劇を見ればよく分かることで、用意周到に準備したシナリオを人に知られないように着々と進めていくところからも明らかである。

ひとりぼっちの世界で45年も生きることはできない。人生のどこかの段階で他人の存在が必要と気づき、他人と共に二人三脚で人生を歩んでいこうと決心するのが人間である。その存在を許すことができないのであれば「無」の中を一人で這いずり回って生きていくしかない。そうした生き方の否定の末に、あの大掛かりな自決劇へと繋がっていく。もし彼の中にそうした存在がいたとすれば、おそらく自決することはなかったのではないかと思われるが、それも難しかっただろうなぁ。というのも、彼ほど人と共に生きることに並々ならぬ抵抗心を持っていた人はいないだろうから。

橋本治がこれほど熱心に三島を論じようと思ったのも自分の中に三島がいたからだろう。そして三島の人に対するスタンスや関わり方が自分のそれと似ていたからだろう。だから、もしかすると自分も三島と同じような末路を辿る可能性も大いにあった。だからこそ、そうなってはならないという自戒の念も込めてこの作品を書いたのだと思う。

橋本だけでなく自分の中にも当然、三島が存在する。そしてその割合というのは結構大きなものだ。しかしながらその存在を自分の中から取り払うことはできない。そうすることは自分自身を否定することになるからだ。三島の生き方を支持するのか、それともその生き方を否定するかの二つの生き方の狭間に懊悩しながら、今後も繰り返しこの作品を読んでいくことになるだろうと思われる。

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