怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

言葉や知識、物の必要性

私達は言葉や知識、物を使って日々生活している。言葉や知識や物を使うのもすべて生活のためで、生活を送る上でなくてはならないものだからそれらをうまく使いこなして何とかこの世界を生き抜いていけるように人は頑張る。もし生活のためでなかったとしたら、人は一体何のためにそれらを用いるのであろうか。そして、そうしたものの必要性は何なのか。


ここにハサミと呼ばれるものがある。これは物を切るための道具で、これを使って工作をしたり、食材を食べやすいようにカットしたりする。調理の仕事に携わっている人であれば嫌でもこれを使わざるを得ないし、物を切る必要性に迫られている人もこれを活用しなければならない。また、これとは別にセロハンテープと呼ばれるもある。これは物が散乱していかないように物を固定するための道具である。事務作業を行っている人は業務で必ず用いるものであろうし、事務職でなくとも、書類をまとめる必要性があるのであればそしてどうしてもこれを用いざるを得ない。


僕はこれらの言葉の意味を知っているし、どういう用途でそれを使うのかも理解している。しかし、生活がないときに言葉や知識、物の「存在意義は」と聞かれると何も答えることができない。何のためにそれらが存在するのか言葉で説明することができないからだ。まず最初に生活があって生活のために必要であるからそれらは必要であるというのは理屈として理解できる。しかし、生活がないときにそれらは必要ないのではないかと思う。理由は単純で、意味を為さないからだ。

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そして生活がなければ、それらはこの世に生まれようがないのではないか。まず最初に人生の誕生があって、それより後に言葉や知識、物が生まれるのではないか。つまり、単独で言葉や知識、物は存在することができず、必ず人生とワンセットでそれらは生まれるのではないのか。もし、人生がないのであれば、言葉や知識、物を用いる必要がないし、それらは効用性を欠いた単なるガラクタでしかない。

 

僕は今このことにとても頭を悩ませている。というのも、生活というものが不確かで、存在の基盤そのものが怪しいものになっているから、言葉や知識や物の必要性が自分にはないのである。それらの必要性が自分にはなくなってしまった。生活や目的もないのに、自分はただ言葉や知識を取り込んで生きようとする。生活は既に空洞化しているというのに。


前述したようなことを普段人は考えたりするものなのか。ハサミやセロハンテープの用途とか言葉や知識を扱うことへの必要性とか、こんなことは社会で生活していくにあたって特段考える必要もないことである。誰にとってもそれは自明のことで、生きていく上でそれがあるのが当然なのだから。従ってこんな問題に頭を悩ませる必要はない。


ブランケンブルクの著書の一つに「自明性の喪失」というものがある。

 

これは生きる上で当たり前とされていることが分からなくなってしまったことを、具体例を交えて懇切丁寧に解説した本である。この本の中で、アンネ・ラウという女性が登場する。彼女は自明性を失い、生活がままならなくなったことを訴える。周りは子供じみた発言をすると罵るが、彼女は大真面目にこのことを考え、自分自身の置かれている状況に自然さがないことを問題視する。ナイフやフォークの使い方とかペンで文字を書く必要性とかいうことに目を向け、何故こんなことが必要なのか、それはなんのためにするのかとグダクダ考え続ける。他の人はそんなことは考えても仕方がないと言うかもしれないが、彼女にとってはそうではない。自明性の喪失は彼女にとって大きな問題なのだ。

 

自明性の不確かさや生活全体の喪失は、生きるということを難しくさせる。必然性も目的も見失い、何のために「生」に向かっていけばいいのかわからなくなるからだ。「生」というものが自身の土台にあるということがはっきりしないから生きるという方向にうまくベクトルが向けられない。そんな中、どうやって生きていけばいいのかずっと考え続けているけど、何の考えも湧いてこない。この先の人生で言葉や知識、モノの必要性を感じることはあるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

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