怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

物の必要性と存在意義への疑問

物の必要性について考えている。そう、物である。この世界にはたくさんの物が存在する。シャープペンシルにボールペン、衣服、フライパンなど生活に必要とされるもので溢れている。

どうしてこの世界には物が存在するのか。物はいったい何のために存在するのかというような疑問が頭の中から離れない。

例えば、ボールペンという物がある。これは物を書くために用いるもので、物を書くという目的のために存在する。これは物を書くために必要なものであるからこの世に生み出されたのか、それとも人間が言語コミュニケーションを通して人に何か伝えたいという欲求を持っていて、その願いを満たすために生み落とされた物なのか、いったいどちらなのだろう。

これがこの世に誕生した理由は僕にはよく分からないが、いずれにしてもこれが人間にとって必要だったからこそ、この世に生み出されたのだと思っている。必要もないのにこうしたものが世の中に誕生するはずがない。そこから派生して物は単独で意味を為すのだろうかという疑問が生じる。僕は、単独で意味や価値を持つ物などこの世には存在しないと考えている。つまり、すべてのものは単独で意味や価値を持たず、生活があることを前提に意味や価値を持つのではないかと。生活があるからこそ、それらの存在が人々にとって必要とされ、効力を持つのではないかと、そう考えるのだ。そう考えているので、もし生活というものがないのであれば、あるいは目的というものがないのであれば、人間がこれを手にする必要もなくなる。そうすると、それは単にこの世界に存在しているだけの物に過ぎなくなり、そこに意味や価値は付加されない。

なぜ自分このようなことを考えるのかというと、物を選ぶことが非常に困難になっているからだ。例えば、スーパーマーケットやコンビニへ行って買い物しようとする。そこには膨大な数のものが存在し、その中から自分にとって必要なものを選び取らなければならない。だけど、自分にはそれができない。多くの人にとって簡単にできることであっても、自分にはそれはできない。
売り場へ行って様々なものに目を通しても、どの物にも心が引き寄せられないからだ。心の琴線に響いてくるものはないし、気持ちに浮き沈みも生じない。そう、物に対する感度が非常に鈍いのである。だけど、それでは生活を続けていけないから、それが自分にとって必要な物なのだと自分に思い込ませて、何かを選び取って自分は買い物業務を済ませる。そうして「自分は買い物を済ませたんだ」と自分で自分を納得させる。その繰り返しである。しかし、それは無理に理屈をつけて選び取ったものにすぎないから、偽の買い物を済ませたということになる。自分にとっての買い物とは、この繰り返しである。

どうして物を選び取ることができなくなったのか。それは二つの理由によるのではないかと考えている。

一つは自分に生活というものがなくなったから、世界に存在するどの物も自分にとって必要がなくなったのではないかということ。先述したように、物は生活がある上で意味や価値を持つ。生活から切り離されたところに意味や価値は生じない。生活がないから身の回りにある物は自分にとって必要がないのではないかと、そう考えるのだ。
もう一つは、物を選んでそれを所有することで、この先の日常を生き延びたいという欲求に欠けるところ。あるいは、それを使って人生を豊かにしたいという欲求がないことからくる考えである。元々、物は人間が社会の中で生きていくためにあるものだし、それを用いることで人々は生活を豊かにしたいと考えている。その欲求そのものが希薄であるか、まったくないからこそ物を必要としていないのではないか。

物が選べない。だけど、物を選び取ってそれを我が身にしないと、この世界では生きていけない。だから、必要もないのに必要であると思い込ませて生きていくしかない。

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