怠惰な生活を送る青年の日記

社会の片隅でひっそり生活しています。

ギリ健という言葉を生み出したのは誰だ?

ギリ健

ギリ健という言葉を最近、耳にする機会が増えた。これはギリギリ健常者の略で、境界知能にある人(IQ70~84)を指す。知的障害と境界知能を分けるのがIQが70未満かどうかであり、70未満であれば知的障害、反対に70~84の範囲に収まっていれば境界知能である。またこれらとは別に発達障害もあるが、これは様々な特性により、社会活動や対人関係に支障をきたしている人たちのことで、IQの高低は関係ない。 IQの低い人もいれば、高い人もいる、ただそれだけのことである。

統計データによると、境界知能と呼ばれる人たち14%の割合で存在するそうだ。100人に一人、50人に7人という割合と考えると、それほど珍しい人たちとは言えない。(引用 なぜ何もかもうまくいかない? わたしは「境界知能」でした | NHK | WEB特集)これとは別に発達障害の割合は6.5%で、100人に6人、50人に3人とこちらもそれほど珍しくはない。(引用: 発達障害は推計48万1千人、厚労省H28年調査 | リセマム (resemom.jp)(引用: 5.発達障害について:文部科学省 (mext.go.jp))
最新の統計データがないのであれだが、平成24年平成28年に取ったデータによると、平成24年が6.5%、平成28年が4%の割合である。とすると、100人のうち4~7%は発達障害者が存在するという計算になる。(四捨五入は切り上げで計算)ただ、境界知能、発達障害はともに専門の医師から正確な診断を受けて判明したわけではないので、これらのデータの妥当性は低い。あくまでこれは身近な人間から見て(教師や親など)どう感じられるかが基準になっているので、目安程度で考えていくしかない。

僕が高校生だった頃、このようなワードは世間で知らしめられてはいなかった。ギリ健はおろか、発達障害の名前すら今と比べてまだ世の中に認知されていない時代だ。ところが、十年の月日が流れ、ここ数年でこうしたワードがとても広く普及するようになった。僕はギリ健者の置かれている立場や抱えている問題よりも、こうした言葉が普及するようになった背景の方がよっぽど気になる。こうした言葉が生まれざるを得ない状況だったからこそ、こうした用語が誕生し、ひいては世間に広く認知されるようになったのだと考えられるのだから。

なぜこのような言葉が誕生し、そして多くの人々の間で問題とされるようになったのか。

これには二つの背景があるように思う。

一つは、社会が個人に求める能力の要求が大きいこと

二つは、教育の問題である。

1.社会の個人に求める能力の大きさ

現代社会は、一人の人間が一つの仕事だけをこなせばいいという状況はとても少ない。正社員では、スケジュール管理やタスク管理、電話応対、メール応対、書類作成、パソコン操作、事務作業など一通りこなさなければならない。一つの仕事をしているだけでは許されず、複数の仕事を受け持つ必要がある。何もこれは正社員に限ったことではなく、アルバイトにも同じことが言える。ファミレスやキッチンといった接客業では一人の店員がレジ打ちから調理、梱包、接客まで一通りこなさなければならず、一人の人間がこなす必要のあるタスクは実に幅広い。つまり、働くにあたってはマルチな人材であることが期待されているのだ。
先日、僕はミスタードーナツへ買い物に行ったのだが、一人の店員が複数の仕事をてきぱきとこなしていて、その能力の高さと器用さにとても驚いた。この「ギリ健」という言葉も、こうした複数の仕事を任せられる状況に適応できず、大きな声を発したことによって生まれた言葉ではないかと思うところがある。彼らは自分の能力以上の仕事を処理できなくなっている。もちろん目に見えて障害があるような人間には見えないので、他の人と同じような扱いを受けて周りと同じような役割を求められる。そしてそれができないとなれば、ダメ人間のレッテルを張られ、個人の帰責性に矛先が向く。これとは対照的に、食品の製造工場や運送業、配達業のように、一つの仕事だけに取り組んでいればよい職業もあるにはあるが、そうした仕事は全体的にみて少ない。昔は存在が許されていた仕事も、技術の進歩により社会がどんどん高度化されていった。そしてそうした過程を経てそのような仕事は機械へと置き換わり、人間の手は不要となりつつある時代になった。だから、単純労働に従事していた人たちの受け皿がない。あるとすればそれは労働環境の外の世界(引きこもりやホームレス、ニート)にある。彼らは望んでそうしたというよりもそうせざるを得ない状況にあったからこそ、そこで生活するしかなかったのではないか。もちろん望んで自らその選択をした人もいるだろうが、多くの人はそこにしか居場所がないからこそ、そこを自らの住処としたのではないかと思わずにはいられないところがある。とすれば、個人への要求を更に引き上げれば、ますますこうした人々の数は増えていくだろう。

2. 教育の問題

教育に関しては問題点だなと思われるところが二つある。一つは、日本の教育はマルチの人材を形成することに努めているということ。なんでもそつなくこなせるような人材を求めていて、バランスの欠けた人材を必要としていない向きがある。少しでも劣った能力があると、すぐさまダメ人間のレッテルを張られ、使えない人間と扱われる。人間は得手・不得手それぞれあるのが当たり前なのだけど、その不得手の部分に対してとても厳しいのである。だから、職場でも同じようにすべての仕事を一通り処理できることが求められている。

もう一つは、暗記力重視型の教育である。とにかく暗記が重視されているので、その答えにたどり着くまでの思考のプロセスみたいなものを必要とされねていない。一部の私立中学の受験ではそのような能力を問われているのだろうが、公立の学校のほとんどは暗記勝負で乗り切ることができる。語句や年表などのワードをひたすら暗記してさえいればよい。その単語の意味や内容を理解していなくても、テストでそのワードを回答に書けば丸が与えられる。しかし、肝心なのはその内容を理解しているかどうか、その内容の背景には何があるのかを把握することであって、ただひたすら語句や年表だけを暗記していても意味がない。その意味を自分の言葉で説明できなければ、本当の意味でそれを理解できているとは言えないからだ。問題に正解することも大切ではあるのだけど、問題の正解することよりも、どうやってその問題の答えを導き出すまでに至ったのかといったプロセスの方がより大切である。僕自身、そうした力にとても弱い。それはこれまでの人生でそうした学習を身に着けずに日々を送ってきたからだ。だから、未知のことに直面した時に上手く対応することが難しい。
仕事ではこうした力が求められ、暗記をしているだけでは臨機応変な対応はとれない。その場の状況に応じてどの行動をとるのが良いか瞬時に考えて行動する必要がある。それが暗記力重視の教育のように一つの答えだけを覚えるような教育では労働環境の中で、フレキシブルに対応していくことはできない。こうした教育のやり方が臨機応変に対応することが難しい人材を沢山作り上げているのではないだろうか。

ギリ健が生まれる背景についていろいろと書いたが、その背景についてははっきりとしたことはわかっていない。僕の考えでは社会の側の要求が大きすぎるからこそ、こうした人間が大量に存在する一面もあるのではないかと捉えているが、元々こうした人たちは沢山存在していた。ただ、義務教育の段階で知能検査を受ける機会がなくて問題のない子だと扱われたり、暗記力だけでどこかの大学(特に私立大学)に入学することができるからこうした人たちの存在が見過ごされているのではないかと思ったりもする。もしそうだとするならば、一定の時期に知能検査を実施したり、教育のシステムを変えて暗記力だけでは対応できない教育を行ったりすれば、ギリ健という言葉が広く普及することもなかっただろう。それからこうした用語は、社会の要求レベルによって変動していくので、例えば、車を運転するだけでよい、食材にモノを乗っけるだけでよい、掃除だけしていればよい、書類作成だけしていればよいといったように、一人の人間に膨大な仕事を割り振るのをやめて一人の人間が一つの仕事だけに向き合っていればそれでよい仕事の選択肢が今よりもあれば、それだけ境界知能と呼ばれる人たちの数が減るのではないかと思われる。

ギリ健という言葉を生み出しているのは、過剰な要求を個人に求める社会なのではないだろうか。

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